25歳の艦長海戦記 駆逐艦「天津風」かく戦えり 森田友幸 光人社NF文庫

25歳の艦長海戦記―駆逐艦「天津風」かく戦えり (光人社NF文庫)

25歳の艦長海戦記―駆逐艦「天津風」かく戦えり (光人社NF文庫)

25歳の艦長海戦記―駆逐艦「天津風」かく戦えり

25歳の艦長海戦記―駆逐艦「天津風」かく戦えり

陽炎型駆逐艦天津風」の最後の艦長を務めた森田友幸氏による天津風最後の戦いと、その後の森田艦長の終戦までの戦いを描いた内容。
森田氏が天津風の艦長として着任したのは、天津風が米潜水艦の雷撃によって艦首に甚大な被害を受け、なんとかたどり着いたシンガポールにて応急処置を済ませた頃合いであった。
天津風は新型機関のテストベッドということもあり、なんとしても本土で修復したいという軍の意向を受けて、船団の護衛をしながら、本土への帰還を目指すのである。
しかし、制空権および制海権を失った航海はただひたすら悲惨としか言いようがなく、護衛船も輸送船も、米爆撃機と米潜水艦の攻撃によってやられていく。
天津風はただ一人最後まで奮戦するも、損傷した天津風は最後の力を振り絞って、中国のアモイにたどり着き、その地に擱座して最後を迎えることとなる。
森田氏の天津風艦長としての役割もまたそこで一区切りとなるわけであるが、帝国海軍軍人としては、さらに戦いは続く。
その後、中国の上海付近にある泗礁山の防衛部隊1000名の指揮官となり、米軍の襲来に備えていたところをそのまま終戦となっている。
25歳という若さで自分よりも年上の荒くれ者が200人も集まる駆逐艦の艦長を務め、また1000名の陸戦部隊を指揮したということは、よほど優れた人物であったことが想像に難くない。
また、既に形勢不利な状況下の最前線にて、散々の艱難辛苦を味わったためか、当時の帝国海軍の方針やあり方に対して、特に厳しく評価しているように感じられる。
明らかに無茶な状況下で、それでもあきらめずに最善の方策を探し、選択し続けてきた傑物の物語であった。