機動戦士ガンダム外伝 THE BLUE DESTINYについて考える

原題:GUNDAM LEGACYガンダムレガシー) episode 02 「蒼い宇宙の彼方に」を考察する

先日はとにかくうれしさをぶちまけるに終始したので、
今回は小説版「機動戦士ガンダム外伝 THE BLUE DESTINY」と本作の相違を冷静に考察してみることに。
まず、冒頭のブルー3号機とブルー2号機の戦いにおけるブルー3号機の頭部破損。
左腕が吹き飛ぶまでは共通しているが、EXAMシステムを搭載した肝心要の頭部を吹き飛ばされている。
これは相討ちの瞬間だから、という弁解も可能に見えるが、この場合小説版のラストであるマリオン・ウェルチとユウ・カジマの会話が成立しない。
(飽くまでこのときのマリオンとの会話はEXAMシステムが媒介となって成立したものであるから)
ゆえにレガシーではマリオンとユウという関係を冒頭から終始排除することに徹したようだ。
頭部の破損は「機動戦士ガンダム めぐりあい宇宙編」のエースパイロットモード、ユウ・カジマ編のエンディングでも確認できるが、
(エンディングのラストで虚空に漂うブルー3号機の頭部が確認できる)
このエンディングにおいてもマリオンとユウの会話は成立しているため、
ユウ・カジマの脱出後に機体が爆発し、頭部が機体から分離したものと考えられる。
次に、ユウ・カジマ大佐率いるジェガン隊はどこのギラ・ドーガと交戦したのか。
ネオ・ジオンの艦隊、並びにMS数はこの「アクシズ落下作戦」を実行するためにギリギリの数であり、
さらに作戦上アクシズルナツー方面に部隊を二分する必要があり、さらにはロンド・ベル隊との交戦によってその数も減少していることから、
ジェガン隊の通信にあるような「数が多すぎる」ということはまずありえない。
また、ユウ・カジマ大佐ら一般の連邦軍アクシズ落下阻止作戦に参加できたのはアクシズの落下が決定的になった段階でもある。
このとき、ネオ・ジオンの旗艦レウルーラは健在であったが、続々と駆けつける連邦軍部隊に慌てていたほどなのである。
ゆえにユウ・カジマらが交戦しえたとすればこのレウルーラを防衛するために残されたギラ・ドーガ隊ということになるのだが、
映像(逆襲のシャアのクライマックス)を見る限り、健在であったギラ・ドーガと交戦することなく、連邦軍部隊は皆アクシズを目指している。
すなわち、ギラ・ドーガなんてどーでもいいから、とにかくアクシズが最優先だったのである。
小説版においては交戦したとの記述も、無視したとの記述も見受けられないが、映像に準拠するならば無視する方が自然である。
にも関わらずここで交戦させたのは、ユウ・カジマに華を持たせるファンサービスの意味合いが強いと考えられる。
落下するアクシズを押し戻す際、小説版ではユウ・カジマは吹き飛ばされそうになるギラ・ドーガの腕を掴む記述がある。
これは、小説という活字媒体であるがゆえに映像と比較した際に、
ユウ・カジマがどのジェガンに搭乗していたのかを明確化させるというファンサービス的な意図で盛り込まれたものだろう。
これに対し、レガシー版ではこの描写はカットされている。
これは、コミックという媒体で既に絵的に明確化されているユウ・カジマをこれ以上明確化する必要がなかったためであり、
また小説版ではこのシーンがある種の見せ場だったのに対し、レガシー版での見せ場は既に与えられていたことも影響しているだろう。
最後に、ラストにおける差異である。
小説版のラストは、アムロ・レイの搭乗する白いガンダムが放つ光に、
ユウ・カジマは人の温かさを感じることで、かつてのマリオンと彼女にまつわるEXAMの事件を思い出す。
これはユウ・カジマという主体が宇宙世紀0079年にあり、
ニムバス・シュターゼンは飽くまでEXAMに相応しい者はどちらかという個人的な感情で、ユウ・カジマに戦いを挑んだのに対し、
レガシー版ではアムロの搭乗するガンダムからの人の光の温かさを通じて、個人の過去ではなく人類全体への未来、希望を見い出す。
このため、レガシーにおけるニムバスは、人類全体への疑問をユウに与える役割を請け負う形で戦いを挑んだとして描かれている。
すなわちユウ・カジマという主体が宇宙世紀0093年にあることになる。
この両者の違いは、小説版がユウ・カジマを「EXAMシステムに関わる事件に巻き込まれた人間」として描いているのに対し、
レガシー版は宇宙世紀アムロ・レイシャア・アズナブルという表舞台で争いあった兵士たちに対し、
全くの裏舞台で戦いぬいた一兵士としてのユウ・カジマ像を描いていることに起因していると考えられる。
以上のように、小説版とレガシー版ではかなりの差異が見受けられる。
ゆえに、今後のユウ・カジマ像をどう語り伝えるかが問題となるが、両者に共通する最小公倍数的な事項は、
機動戦士ガンダム外伝 THE BLUE DESTINY」における公な解釈として扱い、
差異の部分に関してはそれに準ずる形で紹介する程度に留めるのがベターではなかろうか。